龍驤の兵装は昭和11(1936)年5月の第二次改装後は以下の通りだったとあります。
12.7cm連装高角砲 4基
25mm連装機銃 2基
(公式図は設置予備区画のみで0、一般艤装大体図では1基)
13mm4連装機銃 6基
そして手持ちの全ての資料がこの状態のまま開戦を迎えたと書かれています。
ミッドウェー海戦での主力空母の大量損失によって戦艦から商船に至るあらゆる艦船に空母改造計画が立てられその一部が実行された事はよく知られています。しかしながら既存の個々の空母にどのような戦訓対策が成されたかに関してはあまりはっきりした事が伝えられていません。昭和17年後半~18年の改装の詳細は田村俊夫氏が詳細な調査を行った一部の艦を除けば、翔鶴型のような大型主力空母ですら「…であったと考えられる」程度に留まっているのが現状です。第二次・第三次ソロモン及び南太平洋海戦当時の模型を作る場合はその点が考証面で大きなネックになります。
ミッドウェーの二ヶ月半後に戦没した空母龍驤は、どの資料にも開戦時、すなわち第二次改装後の兵装のまま戦没したと考えられるとあります。艦の戦時日誌や戦闘詳報が全く残っていない上に翔鶴や瑞鳳のように機銃増設を示す図面や写真も無いようで、残存する各鎮守府の戦時日誌にもそれを伺わせるような訓令などは見当たりません。しかしながら、仮に小型であっても攻撃空母には違いなく、まして空母改造計画に狂奔していた時期に、開戦時のままの兵装で虎の子の空母を最前線に送り出すのはよくよく考えれば奇妙な話です。
行動記録を見ると、龍驤が日本を最後に後にした柱島出撃は昭和17年8月16日で翔鶴/瑞鶴と同じ日です。翔鶴/瑞鶴は南太平洋海戦後の11月まで日本に戻ってこなかったのですから、ソロモン~南太平洋海戦当時の翔鶴/瑞鶴に機銃増設が成されていたとするならば、行動を共にしていた龍驤にも何らかの対策があったと考えても不自然ではありません。
アジア歴史センターでオンライン公開されている資料の中に、内令という海軍部内での組織編成に関する書類が存在します。量が多いので詳しくは触れませんが、その中の艦船定員変更に関する記述を追ってゆくと、昭和17年の6月~8月に掛けて翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、飛鷹、隼鷹と並んで龍驤にも砲兵の定員一時増員が記されています(龍驤に関してはref.C12070164400「昭和17年8月分(1)」昭和17年8月1日付内令第1447号)。人事異動ではなく定員そのものが増えるのは何らかの兵器の換装または増設に伴う事だったのではなかったのか?という疑念がぬぐえません。
もちろんこれらの事柄は個人的な「疑念」でしかなく、空母龍驤の兵装に対する従来の考え方に異議を唱えるにはあまりにも根拠が脆弱です。換装または増設を示す直接的な資料が存在しないとされる現状では、ソロモン海域に沈んでいる実艦を探し出さない限り判らない事かもしれません。
この項はこれで終わりです。