昭和18年7月下旬の軽巡阿武隈に関する覚え書き(11)

2011–10–30 (Sun)
 前回の続き。

 開戦時には前部マスト支柱の基部付近に山ノ内式礼砲が2基装備されており、昭和17年1月末の上部平面図にも描かれています。18年7月の時点で残存していたかどうかは不明ですが、昭和17年12月の第一水雷戦隊戦時日誌に機銃との交換要望が出されているため、その後の増設に伴い撤去されたと判断し、本製作では付けていません。

 昭和18年7月下旬のキスカ島撤退作戦の再出撃に当たって、艦尾に陸軍の88式7cm野戦高射砲を据え付けた事はよく知られています。幸い、第一水雷戦隊の戦闘詳報(アジア歴史センターRef.C08030085100「昭和18年7月22日~昭和18年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)」)に設置要項が図入りで示されており、それによれば輸送船などに搭載された砲とは異なり、陸戦仕様の高射砲をそのまま甲板に据え付けたもので、アームの間を丸太で固定して中に砂嚢を詰めると共に、船体内部からも木材で補強工事が行われていました。本製作も基本はこの設置要領図に従ったのですが、疑問点も残りました。図中で示されている前後の長さの寸法が、阿武隈公式図の寸法より実寸で2m以上も短いのです。

設置要項図と公式図の比較
(この画像はクリックすると拡大表示します)

 陸軍兵器は完全な守備範囲外で、図書館にあった出版共同社刊「日本の大砲」掲載の図面を元に割り出してみましたが、仮に後部の足を水平に伸ばしたとしても4.5m程で阿武隈公式図の長さには合いません。しかしながら、設置要領図は概略図ですから設置する位置さえ合っていれば個々の装備品との距離関係には意味は無いのかもしれません。本製作では設置要項図に記入の寸法前後4mに合わせ、阿武隈後部甲板のハッチと吸気口の間の中間点に据えましたが、右舷艦首側の脚を固定する鋼索の位置がほぼ水平になるため、あるいは艦尾側に詰めて固定されていたのかもしれません。高射砲自体は前述の日本の大砲の図面を元に、プラ材と金属パイプとエッチング部品の余りなどから製作しています。


艦尾甲板周辺

 艦尾の爆雷兵装は昭和17年1月末現在の上部平面図に描かれています。内容は学研本の折込図面と同じで、本製作でもそれに従って片舷3個計6個を付けています。なお、開戦時の阿武隈には爆雷兵装は無かったとする資料がほとんどですが、個人的には有ったのではないかと考えています。詳しくは後で述べることにします。

 以下次回。

昭和18年7月下旬の軽巡阿武隈に関する覚え書き(10)

2011–10–28 (Fri)
 前回の続き。

 阿武隈に限らず、5500トン軽巡のデリックは公式図上では後部マスト主脚下部の支持具に組み込んであるだけで、特別な旋回装置などは見当たりません。後部マスト付近の艦尾甲板左右両舷に飛行機揚収用ウインチがあり、デリックブームを人力で回した舷のウインチにワイヤーを接続して使用していたものと思われます。なお、左舷側のウインチはシェルターデッキの下にありますが、公式図を子細に見てゆくとデッキ上にローラーが描かれており、ワイヤーをここに通してウインチに接続していたものと思われます。デリックが未使用の場合のデリックワイヤーをどう処理していたのかは不明で、本製作ではマスト基部に留める形としました。

 昭和17年1月末現在の舷外側面図には後部マストのクロスツリーの箇所に加えて、トップマストのヤードの位置にもガフが描かれています。これは真珠湾攻撃当時の写真には写っていないように見え、それ以前の写真も同様なので、過去の図面の改訂漏れではないようですが、大戦中の写真でこの部分が明確にわかるものは手元に無く真偽は不明です。本製作では一応図面の通りとし、少将旗を掲揚しています。

 後部マストにある舵柄標識板は後続艦に転舵の状況を知らせるためのものと資料にあります。しかしながら、動作の仕組みまで解説されたものは手元にありません。すなわち、操舵装置と連動しているのならば標識板のワイヤーは艦内取り込み、非連動手動操作であれば外部に留められるはずです。これは図面にも写真にも明確にわかるものはなく、他艦の航海中の標識板が作動している写真で後部マストに人影が見えない事から連動艦内引き込みと判断して表現しました。

 空中線は前述の舷外側面図にほぼ従って張りましたが、後部マスト付近にある饋電線(格子状の線)は3番煙突から上部に斜めに伸びる線からも3本描かれています。しかしながら、これに関しては線の引込口が不明だったため付けていません。

後部マスト周辺の状況

 5500トン軽巡の14cm主砲の後部には防水鈑と呼ばれる板が付いています。これはタミヤ1/700もアオシマ1/350の部品にも表現されていないものですが、阿武隈に関しては写真を見ると砲の位置によって形状に違いがあったようです。

 世界の艦船増刊No.42 新版連合艦隊華やかかりし頃の写真を見ると、1・2番主砲と3番主砲では防水鈑の側面の形状が異なり、7番砲には防水鈑自体が付いていません。4番砲の形状が3番と同じである事と7番砲に防水鈑がない事は真珠湾攻撃当時の写真から確認できます。また、丸別冊14「北海の戦い」p262-263に、昭和18年7月7日撮影とされる艦尾甲板での記念写真が掲載されていますが、ここに写っている6番(旧7番)砲にも防水鈑は見えません。

主砲の防水鈑の形状及び有無
(世界の艦船増刊No.42 新版連合艦隊華やかかりし頃 p18,90より引用)

 他の5500トン軽巡の写真を見ると、昭和17年に雷撃で損傷した神通や18年に同じく艦尾を失った名取には、いずれも後部の砲に防水鈑が付いていません。そのため、本製作でも防水鈑は1~4番までの砲に付けると共に、1・2番と3・4番では側面の形状を変えています。

 また、昭和17年1月末現在の公式図には後部の5~7番砲の周辺に仰角制限装置と説明が付いた柵状のものが描かれています。これは5番と6番は左舷側の7時と10時の位置、7番は7時の位置で、いずれもシェルター甲板の張り出しの側のため、仰角下限一杯で甲板を損傷しないためのものと思われます。本製作では5番砲撤去後の設定なので、それ以外の二砲について装備を付けています。

 以下次回。

昭和18年7月下旬の軽巡阿武隈に関する覚え書き(9)

2011–10–26 (Wed)
 本論に入る前に、
 覚え書き(1)と(8)で触れた公式図の履歴日付が間違っていました。

誤)舷外側面及上部平面(四枚ノ内一)昭和17年5月末現在
                               ↓
正)舷外側面及上部平面(四枚ノ内一)昭和17年1月末現在

 該当部修正済です。すみません。



 前回の続き。

 昭和17年1月末の艦内側面及上甲板平面図(学研本球磨・長良・川内型収録折込図)と、昭和18年5月末の同図を比較すると、後者には艦橋以外にも幾つかの改正点が描かれています。改めて述べると、

(機銃高角砲等の増設加筆無し)
・5番主砲消去、旧6・7番砲をそれぞれ5・6番砲と記述更新
・1番煙突の前と5番主砲撤去跡に兵員待機所記入更新
・25mm三連装機銃増設に伴う中央甲板右舷側後端の延伸記入更新

 このうち1番煙突前の兵員待機所に関しては、丸戦史と旅No.11掲載の昭和18年9月下旬とされる写真で該当個所に構造物らしきものが見え、また福井静夫氏作成の各種機銃、電探、哨信儀等現状調査表にも1番煙突前の構造物上に25mm単装機銃が設置されている旨描かれていることから、昭和18年5月末現在で図面通り設置されたものと思われます。

 しかしながら、5番主砲撤去跡の後部待機所に関しては前述の写真では存在が確認できません。本製作ではいずれも図面に従って加えましたが、艦内側面図のみの記載で幅がわからないため、前部は現状調査表に描かれている幅、後部もそれに合わせるしかありませんでした。ドアなどのディテールも不明のため、これは空想で加えています。

 昭和17年1月末現在の上部平面図には、シェルター甲板上のカタパルト支柱の直前に二本の実線を伴った点線が甲板を横切るように描かれています。これも説明はありませんが、多摩の公式図はカタパルトの後方に二本の線が引かれ「エキスパンションジョイント」と説明があります。そのため、阿武隈も前部と同じような継手がここにもあったものと判断しています。


 5500トン軽巡の25mm三連装機銃増設に伴う中央甲板の後端延伸に関しては、以前に多摩の公式図について書いた際に触れましたが、阿武隈も昭和18年5月末の上甲板平面図に記載があり、前出の戦史と旅の写真でも右舷側の魚雷発射管開口部の艦尾側側壁が長くなっていることから確認できます。

 この平面図では右舷側の魚雷積込用ダビッドも延伸に伴い移設されたように描かれています。しかしながら延伸前には魚雷発射管室との隔壁に接する形で設置されていたもので、隔壁は移動していないので形状が替わった可能性があります。図面にはダビッドの形状までは描かれていないため、甲板に接する形で張り出しを設けてその上に汎用のダビッドを付ける形としましたが、形状に関しては根拠がありません。

上甲板平面図に於ける比較

 長良型と川内型の中には、後部シェルター甲板の縁に沿ってブラストスクリーンと呼ばれる爆風除けの壁が設置されている艦があります。阿武隈はカタパルト付近の右舷側の縁に沿って丸窓が付いた壁が設けられていて、これは実艦写真からも確認できます。タミヤ1/700のキットではシェルター甲板の形状やラッタルの位置などと合わせて無視されている部分で、可能であれば修正したい所です。また、ここに付くラッタルは開戦時には艦尾から艦首方向に向かって降りるよう設置されていましたが、昭和18年5月末の上甲板平面図では逆に付け替えられています。これは中央甲板の後端延伸に伴う魚雷積込用クレーンの位置変更で、旋回範囲に接近するためかかる措置が取られたものと推測します。

 この項続きます。

昭和18年7月下旬の軽巡阿武隈に関する覚え書き(8)

2011–10–24 (Mon)
 前回の続き。

 アオシマ1/350の球磨/長良型キットの大きな問題点の一つとして、甲板上のレイアウトが全体的に±2~5mmの範囲でズレていて、煙突断面の長さも合っていない点が挙げられます。ただこれは製作過程の際にも述べましたが、修正には膨大な手間がかかる割に完成後の印象はあまり変わらないように感じます。

 ただし、球磨型に関しては3番煙突から後ろの配置を魚雷発射管開口部の位置も含めて修正しない限り、押し潰されたような形になっている後部艦橋の平面型を正しく表現することはできません。また、長良から防空巡洋艦改装後の五十鈴を作る場合も、各煙突と大型吸気口の間隔を調整しないと、増設機銃座との位置関係に違和感が出ます。

 また、長良型は後部マストの高さが公式図と比較して明らかに高すぎます(球磨型は未検証)。これは非常に目立つので、できれば前に触れた艦橋や前部マストの高さと合わせて修正したいものです。



 最初に述べたように、大和ミュージアム所蔵の昭和17年1月末現在の舷外側面及上部平面図の内容が阿武隈の現状を反映したものだとすれば、タミヤ1/700キットの艦橋から後部マストまでの甲板上のレイアウトは大幅に異なるということになります。ただし中央甲板上を明瞭に捉えた写真は手元に無く、図面の信憑性を検討できる材料はほとんどありません。本製作ではほぼその内容に従って作りました。

昭和17年1月末現在 舷外側面及上部平面図より
(この画像はクリックすると拡大表示します)

 前部魚雷発射管のくぼみを埋めた甲板の中央部(81番フレーム上)に、図面では横切るようにして二本の点線が引かれていますが、説明がありません。これは昭和19年9月の五十鈴の完成図の同じ位置にも実線で描かれています(説明無し)。ここを埋めてしまうと艦首からシェルターデッキの後部まで甲板が長くつながる事から、航空母艦の飛行甲板のようなエキスパンション・ジョイント(伸縮継手)があったのではないかと解釈しましたが、写真は無く確証はありません。似た表現はカタパルト支柱の直前にもありますが、それに関しては後述します。

 阿武隈の1番煙突両側の連装機銃座は、タミヤ1/700ではブルワークも無く甲板上に機銃だけを取り付けるように指示されていますが、公式図ではブルワークが舷側からはみ出す形で描かれています。これは学研本球磨・長良・川内型p64右下の昭和16年10月とされる写真で、後方からの手すりが機銃座のブルワークの位置で海側にせり出している事からも裏付けられます。

 艦載機予備翼格納所は図面上では2番煙突左舷側の脇に描かれています。長さは多摩のものよりやや長いのですが、幅は1/3以下とされています。これは上述の学研本収録の艦内側面図にも記述があり、第二煙突の文字の下に点線で角状の囲いと潰れて読めない説明文がありますが、原図には「飛行機予備翼格納所」と書かれています。

 長良型の1・2番煙突の間の大型吸気口の天蓋の形状は、球磨型(多摩)と同じとされている資料が大半でタミヤ1/700もアオシマ1/350もそれに従っていますが、阿武隈や昭和18年10月現在の鬼怒の公式図では異なる形状に描かれています。写真での確認はできませんが、昭和16年に撮影されたとされる五十鈴の上空写真では、球磨型よりも阿武隈の公式図に近い形に見えます。根拠はそれだけですが、長良型の中には球磨型と異なった形状の艦があることは言えると思います。

 2・3番煙突の間の大型吸気口の天蓋も、阿武隈や鬼怒の公式図では球磨型よりやや幅が長く描かれています。この部分は前の吸気口よりも一段高いプラットフォーム状になっていて、それは実艦写真からも確認できます。なお、多摩の公式図では昭和17年・19年共に前後の吸気口の天蓋は同じ高さに描かれていますが、北方作戦中の写真を見る限りでは2・3番煙突間のものは阿武隈と同じく一段高くなっているように見えます。

 この天蓋に付く測距儀は、球磨型も長良型も写真からはシールド付きのようにしか見えません。しかしながら、大和ミュージアムで確認できた公式図-多摩17年・19年、木曽19年、阿武隈17年・18年、鬼怒18年はいずれも長さの違いこそあれシールド無しとして描かれています。特に鬼怒18年の図面(艦船模型スペシャルNo.29 5500トン型軽巡折込図の原図)は、「現状調査ノ上調製ス」と書かれているにもかかわらずシールド無しです。本製作では写真に従いシールド付きとしましたが、これが何を意味するのかは全くわかりません。

 この項続きます。

昭和18年7月下旬の軽巡阿武隈に関する覚え書き(7)

2011–10–22 (Sat)
 艦橋構造の続き。

・信号所の上部艦橋甲板から羅針艦橋後部への移設
 上で述べた丸エキストラ戦史と旅No.11の昭和18年9月下旬幌延の写真からは、前部マストの斜めの支柱は羅針艦橋後端の内側に入り込んでいるように見えます。仮に開戦時のまま羅針艦橋後端を延伸していなかったとすれば、後端は斜めの支柱の位置近くで切れるはずです。それで延伸とそれに伴う信号所の移設は図面通り実施されたと判断しました。

・艦橋の40cm信号灯と1.5m測距儀の位置の入れ替え
 同じ写真からは、開戦時に羅針艦橋にあった1.5m測距儀の下側の半円筒状の基部が見当たらず、羅針艦橋甲板の影がそのまま艦橋側面まで伸びているように見えます。問題は1.5m測距儀が艦橋のどこにも見当たらない事で、仮に図面の通り測距儀が上部艦橋甲板に移されたのであれば、艦橋中部はかなり大きな構造物でブロックされるはずですが、写真からはどう目をこらして見てもそのような影や物体があるようには見えません。ただし、公式図に従って製作した模型と比較すると、艦橋側面の見張所から離れた位置に長細い影のようなものが見えるのが気になります。光源の位置にも依りますが、影があるとすればそれに接する形で元になる構造物があるはずです。

昭和16年12月と18年9月下旬の艦橋の比較
(この画像はクリックすると拡大表示します)

 そもそも双方の位置を入れ替える可能性はあったのでしょうか?

 長良型軽巡は6隻建造されましたが、艦橋の側面に40cm信号灯用の張り出しと1.5m測距儀が装備されている艦は、阿武隈と防空巡洋艦改装後の五十鈴、図面上ですが鬼怒の3隻が確認でき、また川内型は三隻共に装備されています。

 このうち、昭和18年10月現在の鬼怒の公式図と、防空巡改装後の五十鈴の写真では、信号灯用張り出しが上、1.5m測距儀が下になっています。特に五十鈴の装備位置は阿武隈の図面で示されている位置とほぼ同じです。川内型は戦前の写真では神通が五十鈴や鬼怒と同じ、川内と那珂は測距儀が上、信号灯用張り出しが下になっています。ところが、川内の昭和17年時とされる公式図や前回触れた電波探知機装備要項の図では、測距儀の位置が戦前より下げた位置に描かれています。

 これら他艦の例から見て、理由はわかりませんが、大戦中に測距儀と信号灯用張り出しの位置を入れ替える可能性も否定はできません。本製作では入れ替えた状態としましたが、上記の通り写真からは多分に疑念が残るため、昭和18年7月の時点でそうなっていたかどうか確証はありません。

 艦橋の検討はここまで。
 以下続きます。

昭和18年7月下旬の軽巡阿武隈に関する覚え書き(6)

2011–10–20 (Thu)
 前檣トップマストの傾斜の有無を考えるに当たって、キスカ島撤退に成功して帰投した昭和18年8月1日撮影とされるシルエット状の写真が存在します。これを見る限りではトップマストは明らかに直立しているように見えます。

 この写真は出所がはっきりしているもので、世界の艦船1969年9月号(No.145)の解説によると、当時第五艦隊司令部暗号長として旗艦那智に乗組まれていた宮原重弘海軍中尉が撮影した一連のスナップの中の一枚ということです。私もこの模型を作るまではキスカ撤退の写真だろうと思っていたのですが、田村俊夫氏の改装状況の調査レポートや第一水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報などを突き合わせてみると、どうもつじつまの合わない部分が出てきます。

(1)前部マストトップの21号電探が無く、主砲射撃所が残存しているように見える
(2)1月に撤去された5番主砲が残存しているように見える(他の砲と見え方が同じ)
(3)6月末に南方に移動したはずの艦載機が写っている
(4)艦尾甲板の陸軍高射砲が見当たらない


丸スペシャルNo.33 軽巡長良型Ⅱ p68より引用

 このうち、(3)の艦載機に関しては、キスカ島撤退当時の阿武隈には搭載されていなかった事が幾つかの資料から推察できます。

 昭和18年6月の第一水雷戦隊戦時日誌の命令通達の項目にこんな記載があります。

発6月21日 連合艦隊司令長官
受6月21日2130 大和 連合艦隊司令長官 同各司令官 (軍令部総長)
GF機密第二一一四一五〇〇番
連合艦隊伝令作第六〇〇號
1.各指揮官ハ概ネ七月五日迄ニ左ノ兵力ヲ南洋ニ派遣
 同地着後内南洋部隊指揮官ノ指揮下ニ入ラシムベシ
2.大和第十四戦隊阿武隈第十六戦隊香椎青葉内搭載水上偵察機全機
[以下略]

 同じく作戦経過概要に於いて

 6月30日 主要作業
 阿武隈γ[飛行機]ヲパラオ方面ニ派遣ス

 すなわち阿武隈は昭和18年7月以降、艦載機を搭載していません。そして艦に復帰する旨の記述がないまま9月15日付を以て所属そのものが削除されています。キスカ島の撤退作戦当時に艦載機を搭載していないのは作戦行動中の記録写真からも明白で、戦時日誌戦闘詳報にも使用した記述がありません。にもかかわらず、上記の写真には艦載機が明確に写っています。

 以上の点から、この写真は一般に言われている昭和18年8月1日に撮影されたものではないのではないかと考えます。少なくとも電探装備前の5月以前、もし5番主砲が残存していたとすれば昭和18年1月以前の写真かもしれません。これは宮原中尉が那智に乗り組まれていた期間が判明すればより絞り込む事ができますが、模型製作では設定時期に合わないという事が確認できれば良いので、それ以上のことを調べる予定はありませんが。

 以下続きます。

昭和18年7月下旬の軽巡阿武隈に関する覚え書き(5)

2011–10–18 (Tue)
 前回の続き。

・21号電探装備に伴う主砲射撃所の撤去
 昭和18年5月末現在の艦内側面諸艦橋平面図では、主砲射撃所を撤去し下の主砲指揮所の天蓋の前部マストの中心位置に21号電探を設置したように描かれています。また主砲射撃所内にあったと思われる94式方位盤と双眼鏡は主砲指揮所に移設し、トップマストは後方に傾斜、探照灯管制器用フラットも後方に延伸されています。ただし、図面の概要で述べたように電探関係のみ19年3月に履歴改訂があるため、18年5月と設置状況が変わっている可能性も考えられます。

(この画像はクリックすると拡大表示します)

 丸エキストラ戦史と旅No.11に、昭和18年9月下旬とされる右舷二時の方向から撮影された阿武隈の写真が掲載されています。ディテールが潰れ気味でやや判読し辛い部分がありますが、21号電探の装備や5番主砲の撤去、25mm三連装機銃増設に伴う中央甲板右舷側後端の延伸、2番煙突の白塗装が写っている事、また艦載機が写っていない事などから、昭和18年夏~秋頃の写真で間違いないようです。この写真を見る限りでは18年夏の時点で21号電探設置に伴う主砲射撃所の撤去は図面通りに行われたようです。ただし、トップマストは直立しているように見えます。

・前部トップマストの後方傾斜と探照灯管制器用フラットの延伸
 阿武隈の電探設置に伴う前部トップマストの傾斜の有無に関しては、資料によっても写真によっても差違があり、はっきりした確証はありません。

・傾斜していると考えられる根拠
 前述の公式図及び軽巡川内の電波探知機装備要項図
 丸スペシャルNo.98 北方作戦p78のキスカ島撤退作戦中の写真
・傾斜していないと考えられる根拠
 福井静夫氏作成の各種機銃、電探、哨信儀等現状調査表の内容
 丸エキストラ戦史と旅No.11の写真

 この他に昭和18年8月1日撮影とされるシルエット状の写真が存在し、トップマストは直立しているようにしか見えませんが、これは撮影時期が違うのではないかと考えています。根拠は長くなるので次回まとめて述べることにします。

 トップマストの傾斜の有無は21号電探の設置位置と関係があります。電探は敵の位置を知るための兵器ですから、一基のみの設置で電波発信に死角が出ることは機能上あり得ません。公式図では前部マスト主脚の中心位置としていて、トップマストとの間隔が足りないため傾斜させないと電探を360度回転させる事ができなくなります。これに対して福井氏の現状調査表では主脚より前方の主砲指揮所の天蓋上としていて、その場合は傾斜させなくても旋回が可能になります。
 現状調査表は搭載兵器の設置状況を示すものですから、「艦型図の正確性」には意味がないのかもしれません。しかし、何らかの図を元にして描かれたものである事は間違いありませんから、形状の違いを表の趣旨だけを理由に無視することはできません。

 軽巡川内の電波探知機装備要項図は大和ミュージアムの公開資料の一つで、阿武隈公式図の21号電探の装備に伴う改装内容とほぼ一致します。川内の前部トップマストが傾斜している事はラバウル港で撮影された戦没直前の写真から確認できます。

 最終的にはキスカ島撤退作戦中の写真で傾斜しているように見える事と、川内や鬼怒で同様の工事が行われたと考えられる事から、昭和18年7月の段階で公式図の内容通りに工事が行われたと判断しました。また21号電探の送受信アンテナは840kgと重い装備品で、安定したマストの中心位置を外してより構造が弱いと思われる主砲指揮所の天蓋前方に設置するのは不合理ではないかという個人的な考えも入っています

 探照灯管制器用フラットの後方延伸に関しては、キスカ島撤退作戦中の写真では延伸されていないように見えるのに対し、丸エキストラ戦史と旅No.11の写真では延伸されているように見えます。電探装備に伴いマストを傾斜したとすれば、開戦時のままではトップマストの支柱が管制器の旋回範囲に入ってしまうため、川内の仕様に合わせて延伸する事に合理性は考えられます(川内は昭和17年当時とされる図面で電探装備前からこの形状だった事が示されています)。本製作では図面に従い延伸状態で製作しましたが、これも確証はありません。

各艦橋写真と模型との比較
(この画像はクリックすると拡大表示します)

 また、最初の図で示したように電探を示した艦内側面図はトップマストの先端までは描かれていません。川内の電波探知機装備要項図では現在あるマストをそのまま傾斜させるよう指示されているため、本製作でもそれに従ったのですが、完成後に実艦写真と比較してみるとヤードの位置は開戦時より上方に取り付けられていたようです。

 この項続きます。

昭和18年7月下旬の軽巡阿武隈に関する覚え書き(4)

2011–10–16 (Sun)
 前回の続き。

・艦橋前機銃座の有無
 開戦当時の阿武隈には艦橋前部に13mm4連装機銃が1基装備されていたとする資料が多く、タミヤ1/700も同様ですが、真珠湾攻撃当時の撮影とされる艦橋を捉えた有名な写真からは7.7mm留式機銃が2基あるようにしか見えません。ここに4連装機銃が存在し得ない事は戦前の写真と比較して、前方に突き出した機銃座がそっくり無くなっていることと残されたスペースでは機銃が旋回できない事からも推察できます。

 そして昭和17年4~5月の改装でこの部分に13mm連装機銃が装備されました。昭和18年5月末現在の舷外側面及上部平面図には戦前と同じような機銃座が描かれています。これは一般に昭和18年8月1日撮影と言われているシルエット状の写真で艦橋前面下部が突き出して見えることから、図面通り機銃座込みでの装備だったと考えられます。

 ちなみに、上述の図面では7.7mm機銃は1・2番煙突の間の大型吸気口の上に描かれており、恐らく連装機銃の設置に伴ってこの位置に移設されたのではないかと考えます。これは大戦末期に25mm単装機銃と取り替えられたようですが、その正確な時期ははっきりしません。

・羅針艦橋天蓋の測距儀の仕様
 ほとんどの資料では「阿武隈は大戦前に測距儀を6mに換装(大戦中もそのまま)」とあります。しかしながら大和ミュージアム所蔵の公式図では4.5mとなっています。実際に模型を製作してみても、艦橋上に6mを載せると真珠湾攻撃当時の写真と比較してバランスが全く合いません。タミヤ700も4.5mに近い形状ですが、この矛盾を検討した作例は私が見聞きした範囲では見当たらないようです。そもそも阿武隈の羅針艦橋天蓋の「幅」は、測距儀の中心位置で約6m50cmで、仮に6mを装備していたとすれば天蓋ほぼ一杯の長さになるはずです。

 阿武隈の比島沖海戦の戦闘詳報の中にこんな記述があります。

五.戦果及び被害
(二)被害
二兵器機関(主トシテ浸水ニ依リ使用不能トナル)
a.砲術科
(vii)四.五米測距儀仰角10度以上使用不能

 これにより少なくとも最終状態に於いては4.5m測距儀が搭載されていたことがわかります。多摩や鬼怒の公式図から見て主砲射撃用とは別に高射用の測距儀が装備されていたとは考えにくい事から、本製作に於いて羅針艦橋天蓋の測距儀は図面通り4.5mと判断し、ハセガワの装備品パーツを付けています。

・昭和18年4~5月に増備された8cm・6cm双眼鏡の位置
 学研本球磨・長良・川内型に掲載された田村俊夫氏の兵装変遷レポートによれば、この期間に舞鶴で修理が行われた際に艦橋に双眼鏡が増備されたとあります。本製作では「装備位置不明につき未反映」です。
 これは昭和18年5月末現在の艦内側面諸艦橋平面図には記入されていません。舞鶴鎮守府の戦時日誌にも特に記載はありませんが、訓令は3月に出ているため、工事は確実に行われているはずです。

阿武隈と鬼怒の公式図に於ける艦橋の双眼望遠鏡の位置と数
図はいずれも羅針艦橋を示す
(この画像はクリックすると拡大表示します)

 昭和18年10月現在の鬼怒の公式図を見ると、8cm双眼鏡は羅針艦橋の窓の側面の部分の外側に、6cmは信号所の中と外側に描かれています。これが訓令で増備された分かどうかはわかりませんが、阿武隈も装備できるとすればこの場所以外には思い当たりません。ただ、存在の有無が明確にわかる写真が手元にない上に、信号所はともかく羅針艦橋の窓の外側に双眼鏡を付けてしまうと艦橋全体の印象がかなり変わってしまうため、これだけの根拠で設置に踏み切ることはできませんでした。これは今後明確な資料が出てくれば改めて付けることにします。

 この項続きます。

昭和18年7月下旬の軽巡阿武隈に関する覚え書き(3)

2011–10–14 (Fri)
 アオシマ1/350長良型の艦橋は阿武隈や鬼怒の公式図と比較して1.5mm程度高く、またトップマストも実際より長いようです。これは煙突との関係でかなり目立つので、可能であれば修正したい部分です。本製作では艦橋をそっくり作り直しているため製作そのものに関しては何もありません。艦橋で問題になったのは公式図の信憑性でした。

 艦橋構造は大和ミュージアムの公開資料
『軍艦阿武隈 艦内側面及上甲板諸艦橋平面(四枚ノ内二)』(昭和18年5月末現在)
に依っています。
 この図面は昭和17年1月末現在の図面(学研本球磨・長良・川内型収録図とほぼ同じもの)と比較して、全体で以下の違いがあります。

1.単装機銃増設の加筆なし
2.艦橋前の13mm連装機銃用の機銃座を更新
3.1番煙突・及びカタパルトのそれぞれ前に兵員待機所更新
4.魚雷発射管室上の増設分三連装機銃を更新(文字のみ)、5番主砲消去、
 及び中央甲板右舷側の後端延伸を更新
5.7番砲は高角砲ではなく14cm砲のまま
6.艦橋への21号電探設置とそれに伴うトップマストの後方傾斜、
 及び探照灯管制器用フラットの後方への延伸をそれぞれ更新
7.各艦橋平面図で40cm信号灯と1.5m測距儀の位置を入れ替え
8.同じく上部艦橋甲板の信号所を抹消、羅針艦橋後部を拡張し信号所の文字記入更新
(ただし7~8は艦内側面図には未反映)

 また、図面の履歴に関しては、

右上の図面来歴の項目に「昭和17年1月末日現在(新設改造工事完成ノモノ)とあり、
その下に「昭和18年5月末日現在(新設改造工事記入)」と書かれています。
更に下に人名と思われるハンコが押され、
下に「三月末トシ電探関係を記入ス」とあります。
出図は佐世保海軍工廠造船部、
製図日付は昭和17年4月20日ですが、
出図日の項目に19.6.15の印が押されています。

 以上が図面の概要です。そもそも艦橋甲板平面と艦内側面図の間に矛盾がある上に、
日付も曖昧でどこまで信頼が置けるのかよくわかりません。学研本の図面のように将来予定または未定の工事を描き入れて、履歴の現在時点の姿を正確に反映していない可能性も考えられます。

 履歴の前の日付が18年5月で、阿武隈は19年10月の戦没ですから、加筆で3月末ならば昭和19年3月末しか意味を成しません。前年の10月に横須賀海軍工廠で行われた7番主砲の連装高角砲への換装を始めとする改修工事の内容が反映されていないので、文字通りその時点に於ける電探関係のみを加えたものと思われます。
 しかしながら、前の日付が昭和18年5月末ならば既に21号電探が装備された後です。21号電探の設置工事が米軍のアッツ島侵攻の関係で二転三転した事から元の図面には記載されていなかった可能性も考えられますが、いずれにせよ写真からの照合で21号電探の設置場所に関してはほぼ実情を反映した内容と考えられます(照合に関しては後で述べます)。

 それを踏まえて、写真または従来資料に沿っていると考えられる部分は昭和18年5月頃の状態と判断し、更に以下7点に関して考慮することにしました。

・艦橋前機銃座の有無
・羅針艦橋天蓋の測距儀の仕様
・昭和18年4~5月に増備された8cm・6cm双眼鏡の位置
・21号電探装備に伴う主砲射撃所の撤去
 及びトップマストの後方傾斜と探照灯管制器用フラットの延伸
・信号所の上部艦橋甲板から羅針艦橋後部への移設
・艦橋の40cm信号灯と1.5m測距儀の位置の入れ替え

 この項続きます。

昭和18年7月下旬の軽巡阿武隈に関する覚え書き(2)

2011–10–12 (Wed)
 まずは船体から。

 船体は基本的には公式図に、艦底の諸孔の位置と形状は入渠用図の内容に従っています。公式図には艦首のアンカーレセスが記入されていませんが、存在が写真から明白なので表現しています。また図面上での舷外電路の設置位置も開戦前や真珠湾攻撃当時の写真では一部違うようなので変更しています。

 外板に関しては5500トン軽巡の外板展開図が見当たらなかったため、各艦の写真を元に推測でモールドを加えました。合わせのラインは単純なものとしましたが、その後重巡羽黒や駆逐艦各型の展開図を見る機会があり、それらから推測すると艦底部のラインはもっと複雑な構成だったかもしれません。

 アオシマ1/350球磨/長良型のキットの舷窓の位置は全体的にやや低く、艦首部は本来であれば各甲板のシャーラインに合わせて上に弧を描くところが直線に並んでいます。埋めてフライホークの舷窓エッチングを貼るのが最も手っ取り早い方法で、本製作でもそのように処理しています。

 喫水線は満載喫水線の位置で塗り分けたつもりでしたが、どうも違和感があったため再チェックしたところ、公試常備状態での水線位置で塗ってしまっていました。つまり、実際の喫水線の塗り分け位置は模型より更に1.5mmほど上に位置します。これは上部構造物の取り付けがほとんど終わってから気が付き、船体の再塗装は既に不可能で、実艦よりもやや乾舷が高くなってしまいました。最も基本的な事柄でミスがあったのは痛恨の限りです。

 アオシマ1/350球磨/長良型のキットの問題点の一つとして、艦尾水線下の形状が実艦と異なる点が挙げられます。具体的には艦尾端での船体の深さが約1mm不足、艦尾水線下の形状も内側にえぐれ過ぎ、加えてシャフトプラケットの支柱も1~1.5mm程度長いため、結果として舵と船体の間の隙間が大きくなっているほか、スクリューが艦底外板からかなり離れた位置に付いてしまいます。スクリューの先端と艦底外板にほとんど間隔が空いていない事は、魚雷で艦尾を失った名取の損傷修理中の写真からもわかります。

右舷外軸側スクリュー付近に於ける艦尾形状の比較
(この画像はクリックすると拡大表示します)

 根本的な解決法は艦尾艦底部を一旦切り離し、プラ板を挟んで1mm下げさせると共に、船体線図を元に艦尾にパテを盛って整形し直すしかありません。今回の製作では実行しましたが、労力がかかり過ぎる割に効果は無く、艦尾水線下の形状がわかる写真がほとんど残存していない事もあって、キットのままでも正直言ってあまり違和感は感じませんし到底お勧めできるような修正作業ではありません(ゆえに長良の雑感でも指摘はしていません)。


 スクリューブレードの先端に位置する外板と舵に保護亜鉛板を付けています。詳しい説明は省略しますが、形状や枚数の違いはあれ複数の金属素材が水線下にある船には構造上必ず装備されているものです。しかしながら、これが表現されている模型はほとんど見当たりません。本製作では5500トン軽巡の設置状況を示す資料や写真が手元に無いため、大和ミュージアムで公開されている軽巡矢矧の入渠用図に記されている設置状況を参考にして表現しています。

 以下次回。

昭和18年7月下旬の軽巡阿武隈に関する覚え書き(1)

2011–10–10 (Mon)
 今回製作したのは昭和18年7月下旬、キスカ島撤退作戦当時の軽巡洋艦阿武隈ですが、タミヤの1/700WLキットや模型誌等の作例とは細部がかなり異なります。

 製作の根拠の主たる部分は昭和17年4月20日佐世保工廠製図の完成図で、広島県呉市の大和ミュージアムに於ける公開資料の中に含まれているものです。具体的には以下の内容の図面が公開されています。

1.舷外側面及上部平面(四枚ノ内一)昭和17年1月末現在
2.艦内側面及上甲板諸艦橋平面(四枚ノ内二)昭和17年1月末現在
3.艦内側面及上甲板諸艦橋平面(四枚ノ内二)昭和18年5月末現在
4.下甲板船艙甲板船艙平面(四枚ノ内三)昭和18年5月末現在
 この他に、諸要部横断、入渠用図附船底諸孔位置図、船体寸法表などが公開されているほか、五十鈴の船体線図は阿武隈も共通とされています。

 このうち1.は私自身始めて見るもので、端末検索で出てきた時には力一杯のけぞりました。開戦の頃の阿武隈の姿を示したものですが、艦首のアンカーレセスが記入されていなかったり、写真資料から明らかにシールド付きであるはずの2・3番煙突間の大型吸気口上の2.5m測距儀がシールド無しだったりと、一部には疑念もあります。しかしながら、今まで阿武隈として捉えていたタミヤ1/700キットとかけ離れた内容に仰天し、ゆえにこの資料を基に模型を作ってみようと考えたのが今回の製作の動機です。

 阿武隈のキットは上で触れたタミヤの1/700WLがありますが、図面に従うならば艦橋から後部マストまでの甲板上の配置は煙突と大型吸気口と主砲の位置以外は大部分が異なるということになります。つまり、この公式図を考慮しないでタミヤのキットの是非を論じても意味がないのです。実際の製作に於いてタミヤではなくアオシマ1/350長良からの改造になったのは、フルハルでかつスケールが大きければ省略の幅が狭くなる理由からです。

 2.と3.はタイトルは同じですが履歴の日付が異なります。2.は学研太平洋戦史シリーズNo.32 軽巡球磨・長良・川内型に掲載されている図面とほぼ同じものです。3.の方は艦橋平面のレイアウトが一部異なり、21号電探の設置に伴ってトップマストが後傾して描かれているほか、魚雷発射管室上の25mm三連装機銃の増設とそれに伴う中央甲板右舷側後端の延伸、及び2ヶ所に兵員待機所が描かれています。また7番砲塔はそのままで艦橋等への単装機銃の記入もありません。

 この学研本と異なる内容の図面が21号電探装備当時、すなわちキスカ島撤退作戦の頃の阿武隈を示しているのかどうかですが、幾つかの点で後述する作戦時及び終了後の写真と一致することと、それなりに根拠があることがらであれば従来の概念と異なった形で示すのも模型の面白さで、かつ不鮮明な写真のディテールを推測するためにも有効なので、明らかに実態を反映していないと認められる部分以外、この内容に従って作ることにしました。

 以下次回。

タミヤの新版1/350戦艦大和のことなど。

2011–10–09 (Sun)
 メーカーのサイトではまだ公式発表はありませんが、タミヤが1/350の戦艦大和のリメイク版を11月に発売するようで、各通販サイトで注文の受付を始めています。定価は24,150円、またオプションとして艦載艇、ハンドレール、メタル砲身のセットが別売されます。このうち艦載艇セットに関しては、大和型戦艦は艦載艇が艦内に収納される仕様で9mカッター以外は特に設置する必要がありませんから、事実上1/350汎用艦載艇セットの意味合いが強いものと思われます。

 タミヤが1/48零戦52型をリメイクした頃から、次は大和の番だという噂が毎年春と秋に浮かんでは消えていた感じでしたから、とうとう踏み切ったかという印象です。ハセガワやフジミの1/350戦艦・空母の価格が20,000~26,000円前後なので、大和がもし1/350でリメイクされるとすれば30,000円を超えるのではないかと考えていましたが、同じ価格帯に収めてきました。これは販売戦略的な事もあるのでしょうが、大和型は他の戦艦ほど上部構造が複雑ではないので、ひょっとしたら部品数が抑えられているのかもしれません。

 今のプラの組立模型はかつての大型艦船キット=戦艦大和しか無かった時代と違って選択肢も価値観もはるかに広がっていますし、個人的にも今更大和よりもという気持ちが非常に強いのですが、タミヤにとっては大きな零戦とタイガー戦車と戦艦大和には譲れないものがあるのかもしれません。とはいえ、フジミが1/500で大和を出した時に書いた問題は等しくこのタミヤのキットにも当てはまる訳で、マイクロエースの1/250大和の倍以上の価格でかつ小さいキットが市場に受け容れられるには、倍以上の+αがなければタミヤのブランドを持ってしても厳しいものがあるかもしれません(もっとも、金型が壊れてのリメイクでない限り、零戦のように現行1/350製品も廉価版として発売し続ける選択も考えられますが)。

 そのへんも含めて、キットが発売され次第、詳しい雑感を書くことにします。

1/350で何か作ってみる(その77)

2011–10–07 (Fri)
 最後に全体と細部の写真を何枚か載せておきます。4枚目と5枚目はドック入りした際に底から見上げるとこのように見えるという感じで撮りました。現実にはドックの幅は狭いので舷側が壁のようにしか見えなかったはずですが、水に浮かんでいるのとはまた違った迫力があります。工期が長引き不満な部分も数知れずですが、それでも出来上がったのは何よりです。

(本日の写真はクリックすると拡大表示します)










 写真は後日、改めて本サイトの完成品の項目に追加しておきます。次回から製作と考証の根拠をまとめて述べますが、分量が非常に多いので2日置きくらいのペースで更新することにします。

1/350で何か作ってみる(その76)

2011–10–05 (Wed)
 前回の続き。

 ここ数年で大型の組立キットが多数発売された事に伴って、軽量の透明アクリルケースが比較的安い価格で各社から発売されるようになりました。ちっとも安くはないという声が聞こえてきそうですが、それでもつい最近までは大型艦船用の収納ケースといえはオーダーで数万は覚悟、透明アクリルより安価なガラスケースにすると重くなり過ぎて一人では移動すらままならず、自作したほうがいくらか安く付くような状況でした。


 アオシマの5500トン軽巡の場合、サイズに適応したメーカー製のケースは、ハセガワがメーカー直で販売している阿賀野型軽巡用のものと、アオシマがデコトラ/艦船兼用として発売しているW-550の2種類があります。前者は木製土台に3mm厚の透明アクリルを使用した上品なものです。後者は価格が半分以下と非常に安価ですが、値段相応のケースで、透明部分も土台もプラスチック製、元々デコトラ用のケースとして設計されたため土台の中央部が電飾の配線を通せるようパネルになっていて、これがかなり目立ちます。しかしながら非常に軽量であるため、転勤や贈答、展示会など遠距離へ輸送する際には振動や衝撃が中の模型に伝わりにくいという長所もあります。今回は移動を前提としないため、ハセガワのケースを用います。


 飾り脚はニチモ1/200や1/500シリーズで使われていた部品を複製して使用します。ニチモの5500トン軽巡は1970年代の後半頃に一時企画中の噂が流れたことがあり、結局実現しなかったのですが、その頃の思いが少し入っています。

 実際のところ、フルハルキットの飾り脚に関しては、どうもどのメーカーの付属品も今一つで、変に大きすぎたりデザインが単純すぎたり凝りすぎたりで使いたい意欲が湧きません。市販品も似たような状況です。日本海軍艦艇模型保存会の真鍮製の飾り脚はシンプルかつ上品なデザインで個人的には好みですが、価格が高価に過ぎるのが悩ましい所です。


 最後はネームプレートですが、これもまたどのメーカーの(以下略)。とはいうものの取って替われるようなデザインセンスはなく、金属板にエッチングを試みる元気もなく、プラ板で台を作ってMD-5500で印刷したゴールドラベルを貼り、四隅にライオンロアの舷窓閉鎖蓋のエッチングパーツを貼って留め金の代わりとしました。それほど大きな模型でもないので小さくシンプルなプレートにしました。博物館や展示会の模型を見る時は必ずネームプレートのデザインも見るようにしていますが、業者一般問わずどなたもプレートの仕様や文字のデザインには苦心されているように感じます。


上下2枚の画像はクリックすると拡大表示します。

 これでようやく全工程終了です。当初2ヶ月のつもりが頭に1年余計に付いてしまいました。片っ端から手を入れたとはいえ、見込みの甘さと手が遅いのは辛いところです。

 細部などの写真は数日中に改めて載せます。そのあとは製作と考証に関するまとめを集中的に書きます。

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MOMOKO.120%

Author:MOMOKO.120%
職業:自営業見習い
趣味:ブログの通り
模型の守備範囲:船
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現在は1/100初代海王丸の製作を一時休止して、ハセガワ1/350空母隼鷹を製作しています。

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